コツコツと小遣いの中から貯めた500円玉がかなりの量になり、大きな貯金箱に入りきれなくなりました。郵便局でカウントしてもらったところ約20万円ほどあるとのこと。日頃から関東周辺はかなり歩いていますが、思い切って遠隔地である「熊野」に脚を伸ばしてみることとしました。
平成16年7月に、熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産リストに登録されたのは皆さんご存知だと思います。「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「熊野三山」、「吉野・大峯」、「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」からなり、三重県・奈良県・和歌山県の合計29市町村にわたって広がっている広大な遺産です。そのうち熊野古道とは、伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道のことをいい、古くは「くまのみち」、「熊野街道」とも呼ばれ、これらのうち保存状況の良い部分が「熊野参詣道」として国の史跡に指定されています。ウォーキングフリークの私にとってはこれほど魅力的なコースはありません。とはいっても、残念ながら予算や日程上長居はできないので、今回はそのうちの一部分、紀勢本線「那智」駅から「熊野那智大社」「那智大滝」へ歩く初体験のウォーキングロードにチャレンジです。
天気は折からこの冬最強の寒波が押し寄せ、関東を除く各地方は豪雪や強風で大荒れの模様です。列車の運休情報にやきもきしながらも、どうにか当日は天気も持ち直し、東京駅から6時発の「のぞみ1号」に乗り込みます。新横浜を過ぎるあたりから朝ぼらけの中富士山がうっすらと姿を現し始め、いい天気の予感がします。
名古屋に到着したのが7時39分。線路の上にはうっすらと雪化粧の跡が残っています。ここから紀勢本線に乗り換え、特急「南紀1号」で一路「紀伊勝浦」を目指します。しかし、雪により遅れた電車を待ち合わせて4分遅れで出発しますが、更に単線ということも手伝って徐々に遅れが増幅していき、「紀伊勝浦」に到着する頃には20分遅れとなっていました。なんとも早のんびりした特急電車の旅でした。
「紀伊勝浦」駅からはこのコースのスタート地点「那智」駅まで戻り、いざウォーキングスタートです。まず、那智山への入り口にあたる「浜の宮王子」に向かいます。「王子」とは、熊野権現の分身として出現した御子神、在地のさまざまな神々を組織したものと言われており、この「浜の宮王子」は渚の宮とも呼ばれ熊野三所権現を祀る格の高い王子です。
「浜の宮王子」の隣にあるのが「補陀落山寺(ふだらくさんじ)」です。平安時代に、南の極楽浄土をめざして那智浜にやってきた人たちは、さらに南へと小舟に乗って補陀落山へと旅立ちました。この船出を補陀落渡海と呼びます。鎌倉時代から室町時代にかけて、こうして渡海する僧が多くなってきたため、浜辺に寺が建てられ、渡海僧の修行の場とされたのが補陀落山寺と言われています。
お参りを済ませると、ここからが「熊野古道曼荼羅の道」のスタートです。暫くは県道43号線に沿って緩やかな上りを進みます。コース図に従って脇道に入ると、舗装道路から杉林、竹林の間を歩く地道になります。左程勾配はきつくなく、土を踏みしめながらの気持ちの良いウォーキングが楽しめます。
その後、源頼朝の正室北条政子を供養する「尼将軍供養塔」を過ぎ、霊園の中を抜けて村道を進むと右手に「市野々王子(いちののおうじ)」があります。市野々とは那智詣の人をあてこんだ市が立ったことからそう呼ばれ、熊野のシンボル八咫烏(やたがらす)の彫刻があります。神武天皇が東征の時に熊野から大和に入る吉野の山中で道に迷われ、その際に天の神が道案内としてつかわした三本足の鳥が八咫烏(やたがらす)です。日本サッカー協会のエンブレムにも採用されているのでご存知の方も多いでしょう。
更に20分ほど歩くと、本コースのメイン「大門坂」に差し掛かります。「大門坂」は古くから熊野詣に利用された熊野古道の一部で、大門坂バス停のそばから「熊野那智大社」の門前町に通じています。長さ600mの苔むした石段の両側には深い杉並木が続き、木漏れ日しか差し込まない昼なお暗き熊野古道の面影をそのまま残す歴史の道です。「大門坂」入口に立つ夫婦杉は、樹齢800年といわれる巨木で、ここから標高500bの「熊野那智大社」まで急な石段が続き、一汗も二汗もかくことになります。
夫婦杉から50bほど登ると右手に熊野古道最後の王子、「多富気王子(たふけおうじ)」跡があります。王子跡といっても碑が建っているだけで何もありません。ここから那智の大滝が拝めることから(両手を向けてあわせる王子)「手向け王子」から転じて「多富気王子」になったと言われています。
大汗をかいてやっとのことで「大門坂」を抜けましたが、ここから「熊野那智大社」にたどり着くまでがまた一苦労です。土産物屋が立ち並ぶ急な石段を473段登ってやっとのことで大社に到着します。「熊野那智大社」は「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」とともに熊野三山の一つで、1581年(天正9)、織田信長によって焼き討ちにあいますが、その後豊臣秀吉により再建されたものです。境内には推定樹齢850年、平重盛(しげもり)の手植えと伝えられる樟(くすのき)の巨木が大きな枝を広げていました。
「熊野那智大社」と並んでたたずむ「青岸渡寺(せいがんとじ)」は、西国三十三カ所第1番札所で、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により入母屋造の本堂(重要文化財)を残して、ほとんどが失われてしまったそうですが、重厚な造りは見るものを圧倒する迫力に満ちたものでした。
そこから少し下ると、観光ポスターなどでも良くお目にかかる「三重塔」と「那智大滝」のビューポイントです。朱塗りの「三重塔」と「那智大滝」の白い水しぶきのコントラストが非常に美しくまさに絶景でした。
コースを踏破し終えたこの頃になると、日も陰ってきて山上は寒さが一段と増して耐え難い状況になってきたので、早々に路線バスに飛び乗りホテルに帰ることにしました。
ところが、ホテルに帰っても何もやることがありません。夕食はセットになっていないので、お酒でも呑みながら食事でもと表に出ましたが、観光のオフシーズンの街中は閑散としていて目ぼしい店が見つかりません。それでもやっと見つけた赤提灯に入ると、店主も手持ち無沙汰そうに新聞を読んでいて、私が久方ぶりの客だったらしく、それからは店主の話し相手をしながら、ついつい深酒をしてしまいました。どうやって宿に帰ったのか記憶が定かではありませんし、膝には大きな擦り傷の跡があって血が滲んでおり、おまけに帽子と手袋をどこかで失くしてしまいました(笑)。
さて、翌日はもう帰るだけです。しかし電車までの時間がかなりあったので、紀の松島巡りの観光船で時間を潰し、紀勢本線特急「オーシャンアロー」22号に飛び乗ると、新大阪経由で東京を目指したのでした。
空になった貯金箱を眺めつつ、さあ再び500円玉貯金のスタートです。今度遠出できるのは果たして何年後なのでしょうか(笑)。
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